「どうぞ、お口をおゆすぎになってください。注射は痛くはなかっ
たですか?」 歯科医はそう一言声をかけて、振り向きざまにマスクをずらし、紙 コップに用意してあった水を口に含み、歯をゆっくりと冷やした。そし て心でつぶやいた。
「本当に歯が痛いのは、私の方なんだけどな・・・・とうとう「歯 髄」が化膿してきたか・・・・いよいよ治療を受けないとな・・」
実はこれ、患者様を治療中に実際に思った私の様子です。皆さん によく、「先生の前歯きれいですね、さすが歯医者さん」とか、「先 生は歯医者さんだから、虫歯ないんですよね」などと言われます。 ですが、さすがに「むし歯」が全くないなんてことはございません。一 通り学生時代にむし歯の体験はしています。また、こんな質問もい ただきます。「先生がむし歯になったら誰が治すの?」も・・・ブラッ クジャックではありませんので、自分で治療はできません。私も当 然、歯医者さんにかかります。 歯科医である私が、どうして歯で苦労するかを知っていただくこと で、皆さんの参考になるようお話しさせてください。

 今回痛くなったのは細菌が「歯髄」、俗にいう「神経」まで侵入し、 歯髄の免疫細胞と戦った末に、細菌が勝利したためです。


  図1のように歯の中に空間があり、そこに神経や血管、その他の細 胞があり、神経は脳までつながっていますし、血液も循環しています。神経の役割の一つは歯の内側から土壁を塗るように歯 を作り、細菌が歯を溶かして侵入することから守る為です。
 た だ、急激にむし歯で歯が溶けだしたり、歯ぎしりがひどく、すり減るスピードが速い場合は、歯に穴が空き、歯を守ることができずに、細菌の侵入を許してしまいます。
 このような場合は、歯の構造が裏目に出てしまいます。例えると、外部からの防御が完璧であった城が、ひとたび門を破られると逆に逃げ場が無くなってしまうように、根の先の細い管 でしか「歯髄」は血流が確保されません。そのため、一気に 細菌は歯髄の入っていた管を攻め入り、逆に歯の中の空間 を根城としてしまいます。
 さらに、神経が死んでしまうと歯の中 には白血球が入れないので、言わば警察が入って行く事の できないテロリストの洞窟のような状態になります。その経過 が症状の変化としてでてきます。最初は冷たい飲み物がしみ るようになり、次に温かいものでジンジンするようになります。こ の時は逆に冷たいもので痛みが和らぎますので、先ほどの 私のような行動になります。
さらに放置すると、何もしなくても 痛みが出ます。
 こうなると痛み止めを飲んでも効かなくなって きますので、歯に穴を開けて、感染した神経ごと細菌を取り 除くこととなります。
 
さてそもそも、どのようにして細菌は私の歯の中に侵入し たのでしょうか?それは虫歯が原因です。昨年レントゲンを撮った時にむし歯の影が写っていたので「そのうち治療 を・・・」と思っていたのですが、まさに医者の不養生ってやつ ですね。

 ここでなぜ歯医者さんがむし歯になったのか考えな ければいけません。

このように図に書くと(図2)片側だけむし歯が進んでいるこ とがわかります。隣り合っている片側だけ歯を磨いて、その隣の歯は歯磨きをしなかったのでしょうか?
 さすがにそのような器 用なことはできません。実はこれは歯ぎしりに関係するのです。 毎日、日中に無意識で噛みし めたり、夜間に歯ぎしりを繰り返 すと、歯に非常に力がかかりま す。その繰り返しにより歯に微 細な「ヒビ」ができます。そこか ら「むし歯菌」が侵入するので す。日々の日常診療でも顕微 鏡で観察すると、必ずと言って いいほどむし歯のある場所にはヒビが見られるのです。
 こんなに簡単に人間の歯はヒビが入るのでしょうか?人間の噛む力は、食事の時に目で食物を認識して過 去の経験から硬さを想像します。例えばお豆腐を食べるの に、お肉をかみ切るような噛み方をしないようなものです。とこ ろが、歯ぎしりなどは100%の全力の力で噛みしめます。これ は顎の下に重りをぶら下げると、100kg以上の重いものを持ち 上げられることになります。このような力が毎日毎日歯に加 わっているのです。
 『私は、歯ぎしりしているって言われたこと がない』と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、楽 器のようにギリギリと音を立てていないだけで、どなたも実は無 意識のうちに歯ぎしりをしているのです。私自身も天然の歯が すり減っていたり、金歯がこすれて歯の縁がナイフのようにと がってきたこともあります。さらにはアルコールが入ると時々で すが、噛むときに使う咀嚼筋が猛烈な痛みを引き起こすことも あります。歯型を自分で確認するとすり減っていることからも確 認できます。
 しかし、同じように噛んでいるのに、なぜ特定の歯だけにヒ ビが入るのでしょうか?これはいくつかの可能性があります。
 一つは噛み合わせです。人間の歯は理想的にすべての歯が きっちりと並んでいて、すべての歯がしっかり噛んでいるわけで はありません。力のかかりやすい歯と、力のかかりにく歯(図2)があるのです。
 また、別の可能性として今回の私の歯の場合は詰め物が入っていたことが大きな原因と考えます。
ここで余談ですが、ここで大学 生時代の27年前に遡ります。実はこの歯は、大学の学生 実習で同級生同士お互いに歯を削る練習をした時のもの です。今だったらこんなことは許されないのかもしれません が、健康な歯を麻酔なしに練習台として削って、「アマル ガム」という水銀と銀の化合物を詰めたのです。それが本 来「ひと塊」で噛む力に耐えるべくあった構造体は、力の 歪を受けやすくなったと考えます。ちょっと難しいですかね。 このように考えるとわかりやすいかもしれません。折り紙を左 右から引っ張っても破けにくいのですが、一部切れ込みを 入れると、そこから裂けてきやすいことは想像できると思いま す。(ちなみに麻酔なしで歯を削ると、飛び上るほど痛いで す。)
 そう、むし歯の種は、27年前にまかれたのです。
 歯は3回死を迎えると私は考えています。歯を抜く時はもちろんですが、神経をとる時、そして歯を初めて削るときで す。そのぐらい最初の切削には気を使います。しかしいくら か福音があります。先ほどのアマルガムは歯と接着しません が、現在は歯科用の接着材が非常に進歩していますの で、歯が力に耐え、詰め物と歯が一体になるように強固に 接着することは可能です。さらに顕微鏡を使うと削る量が 最小限に抑えられますので、歯の強度を大きく落とさずに 治療することも可能となっています。折り紙で例えると、一 部を切り取った後に別の紙をノリで張り、折り紙を補強する ことができるようなものなのです。ですが、長い年月の後、 歯を削ったことがいろいろなトラブルにつながります。人工 物で詰めたり削ったりしても決して元には戻らないのです。 また治療後も注意深いフォローが必要です。
このように、歯はできるだけ削らないことに超したことはあ りません。とどのつまりは、やはり予防に繋がっていくのです。今回神経をとる治療になりましたが、次回のテーマは 歯の神経を取った歯がどのような経過をたどるか、これもま た私の経験を元にご説明したいと思います。